著者・あらすじ
永山久夫
1932年、福島県生まれ。食文化史研究家、長寿食研究所所長。平成30年度文化庁長官表彰受賞。古代以来の和食を中心に長寿食を研究し、各地の長寿村を訪ねて長寿者の食事やライフスタイルを取材。講演やテレビ、雑誌など多方面で活躍している。日本の古代から明治時代までの食事の研究に長年携わる各時代の食事復元研究の第一人者でもある。
あらすじ
食文化研究家が「日本食」の教養を一冊の本にまとめます。「日本食の作法」「匠の技」「日本料理のルーツ」など、知的教養を身につけるための知識が網羅されています。
1. 食事をするときに必要不可欠なもの
食前のあいさつとして「いただきます」がありますが、実のところ、この「いただきます」は「食事をもらいます」といった意味ではないのです。どんな意味かというと、命を与えてくれる自然に対する「感謝の意を表す言葉」です。米や野菜、魚や肉など、すべての食材は命があります。その命をいただくことで、自分が生かされていることに感謝するのです。
さらに、目の前の料理は、食材を育ててくれた人、それを運ぶ人、作ってくれた人、配膳してくれた人への感謝の意を表す言葉でもあります。つまるところ、「いただきます」は、命を分け与えてくれたすべての人への「感謝の言葉」だったのです。そもそも「いただきます」の「いただく」は、山の頂に宿る「稲作の神様」への感謝の心を表す言葉が起源です。
神様が宿るとされる山の頂上や山のてっぺんを「頂」と言うため、「いただく」は大切なものを頭の上に、恭しく(うやうやしく)捧げ持つ言葉として使われました。中世以降では、位の高い人から物をもらった時、または神仏にお供えしたものを食べる時には、頭上に捧げ持つ「押し戴く」動作をしてから食べたため、「食べる」の謙譲語として「いただく」が使われるようになったのです。これらが次第に食事前のあいさつとして定着しました。
2. 「炊飯」を研究してきた日本人
日本人であれば誰もが毎日、口にするものと言えば「お米」です。このお米をおいしくするためには、「炊き方」がカギを握ります。実のところ、日本には独自の炊飯方法があったのです。それが「炊き干し」といった炊飯方法です。よく「始めちょろちょろ、なかぱっぱ、親が死んでも蓋取るな」と言われますが、これが「炊き干し」です。炊飯器が登場する前は、お米は羽釜で炊いていました。
はじめは、釜全体を温めるために弱火にし、温まってきたら強火にします。そして沸騰したら火を弱め、火を止めた後には、蓋を取らずに余熱で蒸すといった方法です。「親が死んでも蓋取るな」というのは、蒸す段階で蓋を開けてしまうと、温度が下がり、蒸らしが失敗してしまうことから、このような過激な表現を用いたのです。他国では、「炊き干し」ではなく「湯取り」という方法で炊飯します。「湯取り」とは、大量の水で米を軽く茹でた後、水洗いし、その後蒸すといった方法です。
しかし、この方法では、せっかくのお米のうまみがすべて失われてしまい、おいしいご飯にはなりません。かつての日本もこの「湯取り」という方法で炊飯していましたが、「もっとおいしいご飯が食べたい」という思いから、この「炊き干し」という方法が生まれたのです。
3. 「会席料理」を知る
ビジネスパーソンであれば、接待などで「会席料理」を食べる機会があると思います。海外のビジネスパーソンから、この「会席料理」について聞かれても恥をかかないために、「会席料理」について知りましょう。そもそも、「会席料理」とは、本膳料理や懐石料理を略した形式の料理のことです。
そのルーツは、江戸時代中期と言われ、庶民の間に流行した俳諧(はいかい)の席で出されたことがきっかけです。当時、町民が通う高級料理店、茶屋が増える中、本膳料理や懐石料理はあまり好まれませんでした。なぜなら厳格な善組みや食事作法があり、敷居が高かったからです。そこで生まれたのが、くつろぎながら食事ができるスタイル「会席料理」だったのです。
この会席料理にはこれといった「形式」はありません。ベースは本膳料理や懐石料理なのですが、その形式はさまざまです。料理をすべて並べたり、一品一品出したり、温かい料理だけ後から出したりと、自由な形式で料理が提供されます。ちなみに、同じ呼び名で「懐石料理」がありますが、この懐石料理とは茶屋で、一品ずつ提供される軽い食事のことです。「修行僧が温めた石を懐にしのばせて空腹を紛らわせた」という逸話から「懐石」と名付けられました。したがって「会席」「懐石」は、形式の違いだと認識してよいでしょう。
まとめ
『外国人にも話したくなるビジネスエリートが知っておきたい教養としての日本食』をご紹介しました。「灯台下暗し」と言いますが、私たちは、意外にも自国や地元について多くを知りません。その理由は「当たり前」過ぎて、意識が向かないからです。しかし、自国や地元を知るといったことは「自分」を知ることに繋がるので、本来は一番に知るべきものなのです。